はしるおうち〜取捨選択の日々〜

キャンピングカー生活を目指して生活のコンパクト化をしていきます。

身体の言い分も聞かなくちゃ

先日、一般の人がオーガニック食品を紹介しているYouTubeを見ていたら、その人の食材庫にインスタント食品や化学調味料がいくつもあるのを見つけてしまってなんとも言えない気持ちになりました。オーガニックにこだわるより食品添加物を排除するのが先なんじゃないかなぁ。

そう言う私も若い頃は食品添加物には全く無関心でした。問題提起されているのは知っていましたが現実味が感じられませんでした。

「誰もが問題なく生活しているのだから大丈夫」

「売られている食品のほとんどに入っているものをどうやって避けるんだ」と思っていました。

以前ソーセージ専門店の人が、商品として販売するにはある程度の食品添加物は必要だと言っていました。たしかに食べ物の品質を保つには仕方ない事かもしれません。100パーセント添加物を排除するのは不可能です。でもやはり気になる。

なんとかできないものかと考え、まず出来るだけ添加物を避ける生活をしはじめました。すると思わぬことが起こりました。味覚がクリアになって今まで感じなかった味がわかるようになったのです。普段使っていた塩や砂糖にも違和感を感じ、安価な加工肉も食べられなくなりました。ずっといつも食べていたクッキーに入っていた重曹の苦味を感じたのには驚きました。

そうか、そういうことかと納得したのです。

「脱・添加物生活」が始まりました。まず調味料をできるだけ自然に近いものに変え、買い物の際は食品成分表をよく確かめるようになりました。排除しきれない添加物はよく噛んで唾液と混ぜることによってある程度処理できるのだそうです。玄米食で培われた「よく噛む」習慣がここで役に立ちました。戻ってきた味覚は避けなければいけない食べ物を報せてくれます。

玄米を食べるようになってだいぶ経ちますが、日々その良さを家族みんなで実感しています。便秘とはほとんど無縁ですし、風邪で寝込むこともなくなりました。口内炎になったことは何年もありません。自らを守るため身体が正常に機能しているように感じます。

f:id:h22cosmos:20210204132755j:plain

食べ物に関する私自身の考え方は以前ブログに書かせていただきましたが、そんなにストイックな生活をしているわけじゃありません。子供の頃から大好きなチョコレートはやめられませんし、白米もメニューによって食卓に上ります。たまにお肉やインスタントラーメン、コンビニ弁当…。その時に食べたいものを食べています。

時間に縛られず、お腹がすいたら食べるようにしていますし、食べ過ぎも無くなりました。選んだ食材でシンプルに調理したものを「美味しい、美味しい」と言いながらよく噛んで味わって食べたら適量でお腹いっぱいになりますよ。

身体にいい食生活はおしゃれではないかもしれません。決して“映える”食卓ではありませんが身体が喜んでくれることが一番だと思っています。

今のこの状況に置かれても我が家はほとんど変わらず元気に過ごしています。身体を整える食事にこだわってよかったなと思います。

それではまた。ありがとうございました。

遠くにありて思うもの

最近、昭和の歌謡曲若い人たちに流行っているそうですね。

まだ10代の女の子たちが、かつて私たちが毎日呼吸するように聴いていた松田聖子松任谷由実、チューリップやさだまさしを熱く語っているのを見るとくすぐったいような変な感覚になります。

f:id:h22cosmos:20210113131536j:plain

かつてアイドルだった人たちが、今も現役で立派にステージに立って昔の持ち歌を歌う場面を観ることもあります。

何年も歌い続けて熟練した歌声は素晴らしいのですが、やっぱりちょっと違うのです。

10代の頃の拙くて不安定な歌の方が私には心地よいのです。その歌声が孕んでいる当時の空気が感じられるからかもしれません。

私にも10代の頃の10年間ファンだったアイドルがいました。長い手足を使った華麗な振りと力強い絶唱がトレードマークでしたが、私は彼の甘く切ないバラードが大好きでした。

晩年の彼は病を得て長い闘病の末、数年前に若くして亡くなりました。不自由になった身体で懸命にリハビリを行い、歌手復帰を目指していたようでしたが残念ながら叶いませんでした。

テレビで闘病を頑張る彼のドキュメント番組もやっていましたが、本音を言えば私は彼のそんな姿を見たくありませんでした。

最期まで応援していたファンの方たちに怒られるかもしれませんが、私の中の彼はいつまでも明るく元気に笑っていて欲しかったのです。

昨年も多くの昭和歌謡の立役者たちが亡くなりました。時代はゆっくりと流れ去っていきます。

今はもう帰らない日々は愛おしくそっとしまっておきたい宝物。室生犀星が歌ったふるさとのように「遠くにありて思ふもの」なのではないかしらと思います。

それではまた。ありがとうございました。

あけおめ。ことよろ。

新しい年が始まりました。想定外なことばかりだった2020年をなんとか納めて心機一転まっさらな年を迎えましょう。

年末は大掃除もほどほどに、お正月の準備もほどほどに、年賀状もぎりぎりでとゆる〜く過ごしました。「あつ森」にハマり過ぎたかしら…😅

f:id:h22cosmos:20210106143548j:plain

なんと今年のクリスマス、我が家にサンタクロースがやって来ました。

25日の朝、目を覚ますと枕元にラッピングされた箱がありました。夢だと思って一度寝ました(笑) 再び目覚めると確かにプレゼントの箱が置いてありました。かなり昔で忘れてた感動が湧いてきました。やっぱり嬉しいもんですね。

子供たちが夫と私へのサプライズでやってくれたのですが、全く思ってもみなかったことだったので本当にびっくりしました。まさに想定外な一年の締めくくりにふさわしい出来事でした。

子供たちよ。大人になったのね。

f:id:h22cosmos:20210106143504j:plain

いつもの好きなものだけの手作りおせちを食べながら思います。これからまだまだ禍いは続くのでしょうが、平常心を保って心穏やかに乗り越えていければいいな

それではまた。ありがとうございました。

逃げないお金

いろいろと大変だった2020年も師走を迎え、年末ジャンボ宝くじのシーズンがやってきましたね。毎回ジャンボ宝くじのCMを見るたびに思います。一般の人が10億円もの大金を手にしたら人生どうなるのかしら。

お金の匂いを嗅ぎつけていろんな人間が群がってきたり、当選者本人の人格が変わってしまったり…。何度もドラマにもなりましたが、考えてもみなかった出来事が起こるようです。お金は人間を狂わせますよね。

f:id:h22cosmos:20201225132732j:plain

以前は私も買ってみたりしていましたが、当選金がどんどん上がっていくにつれ気軽に買えなくなってしまいました。お金は等価交換で入ったり出たりするものだと認識しているのでよく考えずに手を出すのは危ないと思うのです。

自分が努力して働いてその報酬として入るお金ならいいですが、逆にいきなり莫大なお金が先に入ってきてから後々その対価を求められることに恐ろしさを感じるのは考えすぎでしょうか。

私はもともとお金には無頓着であまり執着を持つタイプではありません。そのため若い時は貯金もせずに使い過ぎて何度も失敗を繰り返しましたが、ようやくお金の扱い方がわかってきました。

さまざまな失敗から見えて来たことはお金はその人の人生に沿って出入りするということです。

欲張って必要以上のお金を欲しがったり、一攫千金を狙ってたとえ大金が転がり込んできてもいつのまにかお金は逃げていきます。逆に誠実にきちんと生活していれば不思議なことにお金はどこからか必要な分だけ入ってくるのです。

人生においてお金はただのアイテムだと考えてみたらどうでしょう。使いきれないほどのお金を持っている人もいれば、明日の生活費のあてもない人もいます。それぞれが置かれた環境の中でどれだけ充実したかけがえのない人生を送れるかが大切なのではないでしょうか。

老後にはかなりのお金が必要になるとよく脅かされますが、私はそんなに心配していません。

京都・龍安寺のつくばいに刻まれた4文字「吾唯知足(ワレタダタルコトヲシル)この言葉を胸に身の丈にあった生活をしていればお金が逃げていくことはないと信じているからです。

それではまた。ありがとうございました。

ファインダー越しの世界

YouTubeを観ているとプロ顔負けの美しい動画に驚きます。機材の発達もあるのでしょうが、そんじょそこらのテレビ番組より見応えがあります。

キャンピングカー生活を始めるのだからその様子をYouTubeにあげればいいのではと思われますが、いかんせん私は写真が好きではないのです。自身の映像センスの欠如も要因の一つなのですが肉眼で見た景色と撮った写真との印象の差に納得できないのです。影技術の未熟さもあって一枚の写真にしてしまうとその時の感動がまるで再現できてないのです。

子供の運動会などのイベントで夢中になってカメラやビデオで撮影しているお父さんお母さんがいますよね。私も我が子の撮影に熱心だった頃もありました。でも一生懸命撮ったのにそのまま仕舞い込んであまり観ないという話もよく聞きます。しかも撮っていた本人は夢中になり過ぎて当日のことをあまり覚えていないとか。

二度とない我が子の晴れ舞台をあまりよく観ることなくただ撮影作業に時間を費やしてしまうなんてなんとももったいない気がします。そう思い直して私は早いうちから撮るのをやめてしまいました。私は記録を残すことに躍起になるより、今この瞬間を楽しみたいと思うのです。

子供たちの勇姿をファインダー越しにではなく肉眼で記録することに大切さを感じるのです。

f:id:h22cosmos:20201201112909j:plain

先日、娘が受けたオーディションでありがたいことにグランプリをいただきました。お祝いと誕生日プレゼントを兼ねて以前から欲しがっていたポラロイドカメラを贈りました。途方もない量のデータを保存するスマホカメラが主流の今、唯一無二の一枚を撮れるポラロイドに興味を持つのは私の資質を受け継いでいるのかもしれませんね。

娘の前に新しい扉が開きました。その向こうにどんな世界が広がっているかわかりませんが、今のこのかけがえのない瞬間を私の記憶にしっかりと写し取っておきたいと思います。

それではまた。ありがとうございました。

油を一滴

来月、私の住む街で重要な住民投票が行われます。その結果でこの街が向かう未来が大きく変わるかもしれません。

以前住んでいたF市では図書館や美術館、劇場などのカルチャー施設がとても充実していて、子供からお年寄りまでさまざまな人たちが多く出入りして活気にあふれていました。図書館には話題の本が並び、予約すれば最新刊が読めます。美術館や劇場にも有名なアーティストが集います。

ところが今の街に移った時に近くの図書館に行ってみたところあまり人がいませんでした。子供たちの姿はちらほらで居眠りしている年配の方が目立ちました。並んでいる本も古い本がほとんどで新刊はわずかでした。劇場を併設した施設は立派なのにあまり使われていないようです。

f:id:h22cosmos:20201029073252j:plain

先日この街に新しい図書館が生まれました。設計した建築家安藤忠雄さんの言葉です。

「建物は箱に過ぎない。その中には

   宝物が詰まっていなければならない。」

「宝物」とは人々の「好奇心」なんじゃないか思います。中に入るだけでワクワクしていろんなことをやってみたくなるようなそんな施設が多くあって欲しいのです。

未来を担う子供たちだけじゃなく、いろんな世代の人たちの好奇心を掻き立てられるような場所が増えていけば、この街はもっと豊かになっていくんじゃないかと思います。

この街には立派な空箱があちこちに建っています。これではいけないと切実に思います。

問題があるならそれだけ解決すればいいと言いますが、そんなに簡単な話ではありません。

私も経験がありますが、今まで誰も触れることなく済ましてきた「慣例」を動かすことは容易ではないのです。長い時間動かず錆びついた歯車は簡単に回ってはくれません。根本から考え直す時期が来ているのだと思います。

確かに給付金もありがたいのですが、なんだかごまかされているような気がしてなりません。

「お金くれるなら多少のことは文句言いません」

などと言っていては本当の意味での明るい未来はいつまでたっても来ないような気がします。

今回の住民投票での私の一票が錆びた歯車に差す一滴の油になればいいのですが。

それではまた。ありがとうございました。

小さな親切 大きなお世話

かつて親を介護していた女性が足をケガして歩けなくなったとき、身の回りの事が自分でできない辛さを身に染みて感じたと言っていました。

この方はきっと優しい人でとても献身的にご両親の介護をしていたのでしょうね。(ケガをしたのも近所の子供をかばってのことだそうで)それでも介護される側が求めていた事をちゃんと理解できていなかったと悔やんでいるというのです。

「相手の立場になって」とよく言われますが、それってとても難しい事だと思います。違う立場を考えても想像の域を出ることはないのです。


日本に長年住んでいる外国の人が見た目で判断されるのが苦痛だと言っていました。確かに日本語が解るのに英語で話かけられたり、普通にできることをいちいち事細かく説明されたら煩わしいだろうと思います。

でも初対面で相手がどんな人でどんな事を求めてるか解る人はまずいないのではないでしょうか。

誰もが仲良くしたい相手にどうアプローチしようか考えます。

誰もが困ってる様子の人になんと声をかけようか悩みます。

誰もがなんとか相手といいコミュニケーションを取ろうとしているのです。

f:id:h22cosmos:20201021103821j:plain

基本的に人は、特に日本人は相手の幸せを自分の幸せと感じる人が多いように感じます。

ほとんどの人が好意的にアプローチを試みているのだということを信じて欲しいです。

そしてそれは「見た目」だけという少ない情報から考えて絞り出した末の一言なのだとわかって欲しいのです。

ヘイト的な発言なぞは論外ですが、好意からの小さなノックはどうか許してほしいのです。


それではまた。ありがとうございました。